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この記事は自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2019 - Adventar20日目です

ここ数年で人との付き合い方がだんだんと分からなくなってきた

そもそも仕事以外で人間と親しくなる事が少なくなった

学生の頃は何もせずとも気が置けない友人ができていたものだが社会に出るとそうもいかない

学生時代の友人も社会人になって新たな友人を作って俺の事は忘れ去っていく

皆社会人になってどこでどうやって人と出会い親しくなっていくんだ?

俺はこのまま孤独に死んでいくんだという漠然とした恐怖感と闘いながら日々生きていくのに疲れてしまった、誰か助けてくれ

2019年と2020年の話

この記事は自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2019 - Adventarの6日目です。

2019年の話

大学を中退した

2019年1月、3年生の終わり頃に大学を中退した。 元々親と反りが合わなかった私は大学2年が始まった頃に大学の近くの祖母の家に居候をはじめた。 最初は上手くいっていたものの、2018年の春頃に愛犬が亡くなった事をきっかけに祖母が認知症になっていき、その後夏に転倒し足の骨を折って入退院を繰り返すようになった。 そこで、祖母の入院費や生活費、介護をどうするかみたいなよくある親戚間の問題に巻き込まれた。 元々おばあちゃんっ子だった私は、出来る限りの援助をしたいと思い、だんだんと学業が疎かになっていった。 そして2018年の大晦日に祖母が亡くなった。 年が明けてから親に成績の事で怒られたが祖母の事でいっぱいになっていたと説明すると「ばあちゃんはお前がおらんところで『あいつは家の事何も手伝ってくれへんし家にお金も全く入れてくれへん』って言ってたで」と言われ、親戚の中で俺は「家の事も何もせずお金も入れない上に大学にも全然行ってない居候」と思われていた事が発覚した。 ボケてたのか、学生に家の心配事をさせているのを知られたく無かったのか、はたまた俺のことが嫌いだったのか、今となってはもうわからないが、とにかくこの件で吹っ切れた私は大学を辞めて地元を離れる決心をした。

東京へ引っ越した

1月の末に内見して2月中ば、祖母の49日が終わったその日の晩に友人に車を出してもらうという弾丸引越しだった。 家は都内ならどこでも良かったので、仲介業者のお姉さんオススメの吉祥寺に引っ越した。 引っ越してから知ったが、住みたい町ランキング上位常連の場所らしく、それにしては家賃も安いので最近実は人が死んだんじゃないのかと疑っている

フリーランスのエンジニアになった

仕事も何も決めずに見切り発車で東京に引っ越したので職探しに苦労した。 最初はメルカリに入りたいと思っていたが残念ながらご縁が無かったようで落ちてしまった。 その後ちょうどいい案件を紹介されたのでフリーランスになる決心をし、その後ずっとフリーランスのソフトウェアエンジニアとして活動している。

2020年に向けて

大学に通いなおしたいなという気持ちが強いので、4月からまた大学生兼フリーランスになるかも。 また、しばらくフリーランスは続けていこうと思っているのでお仕事募集しています。 レガシーなシステムや開発組織をモダンにするのが好きで得意です。 気になる方はHarutaka TAKEUCHI (@nametaketakewo_) | TwitterへDM、もしくはh.takeuchi@euterpe.jpへメールをください。

私と人間関係とインターネットと

その昔なりきりチャットという文化があった。今もあるかもしれない。

なりきりチャットとは読んで字の如く漫画や小説、アニメやドラマの登場人物の口調を真似た人同士でチャットを楽しむ、というものである。

小学4年生、当時10歳だった私はこれにハマっていた。10年以上も昔の話である。

当時の私は学校に友達が少ないわけでもなかった。ただ、当時の私は自分を頭が良いと思い込んでおり、周りの友人を少し子供っぽいなと感じていた。今思い返すと非常に愚かだが。 それにオタクっぽい話題を出せる友人は当時周りにはいなかった。

自分より周りの人達の年齢が高くオタクっぽい話がおおっぴらにできるなりきりチャットは自分にはとても新鮮で楽しかった。

色々な作品のキャラでなりきりチャットを楽しんでいたが、最終的に銀魂の桂小太郎に落ち着いた。

しばらく続けていたある日、段々とメンバーが固定されてきた事に気付いた。

なりきりチャットでは、なりきるキャラクターの他に、誰が人がなりきっているかを判別できるような識別子が入ったコテハンを付けるのが暗黙の了解だった。 坂田銀時(銀髪の侍)、小悪魔神楽チャン、志村新八の眼鏡じゃない方、みたいな感じである。

因みに私の当時コテハンは「‡流離いの桂小太郎‡」であった。

彼らと次第に打ち解けていき、他愛ない会話だけではなく、お互いの生活や悩みについても話し合うようになっていった。

ちょうど小学校が夏休みに入り時間があった事もありチャットルームにずっと入り浸り彼らとの会話を楽しんだ。

お互いに顔も名前も知らなかったが、そこには友情と感じるものがあった。

ある日、私が用事で1週間程チャットにアクセスできなくなった。

‡流離いの桂小太郎‡「突然で悪いのだが、明日から1週間程ここには来られなくなる。所用でな。」
坂田銀時(銀髪の侍)「そうか、寂しくなるな… 元気でな、ズラ。」
‡流離いの桂小太郎‡「ズラじゃないヅラだ、あ間違えた桂だ。心配せずとも1週間後にはまた顔を出す。銀時、お前も達者でな。」

こんなやり取りの後、私は1週間オフラインになった。

1週間後、いつものチャットルームに戻ると私が見知った面々は誰もいなかった。 それから1日、また1日と時が過ぎて行き夏休みが終わった。 結局その後私が彼らと出会うことはなかった。

私が初めて人間関係の終わりを体験した出来事だった。

それから月日が流れ、小学6年生になった。 当時インターネットではTwitterが話題になっており、私も存在を知ってすぐ登録した。 企業からの情報や時事、ニュースを仕入れる為に始めたのだが、次第に他のユーザーとコミュニケーションを取るようになっていく。 いつしか自分と気の合う人々との交流がメインの使い方になっていった。

中学1年生の夏休み、インターネットを利用できなくなった。 部活で疲れて帰宅した直後にベッドに倒れこんだ私を見たキチガイの母親が「パソコンばっかり触ってるから規則正しい生活ができなくなった!」とヒステリーを起こし私の電子機器を全て破壊したからだ。 丁度その直前に心に深い傷を負う出来事があった当時の私は、病みツイートを連発した直後にTwitterから姿を消したのだった。

その後結局心の傷が癒える事は無かったが、学校の友人達のお陰もありなんとか普通の生活を送れるようになった。

中学2年生になり夏休みも終わった頃に、親から「リビングのパソコンを使ってもいい」という許可を得た、親が横に居る事が条件だったが。 その間Twitterで交流していた人々の事は気がかりだったが、学校生活がそれなりに充実していた事、何より気にしても自分にはどうしようもなかったので少しずつ忘れていた。 それでもやはり心のどこかで気にしていた私は、インターネットが使えるようになりすぐにTwitterにログインした。 私がよく絡んでいた人達は皆数ヶ月前からツイートが無かった。 リプライを送れば反応があったかもしれないが、結局私にはその勇気は無かった。

私は今別のアカウントで名前も素性も明かしてTwitterをやっているが、それでもTwitterでしか連絡が取れない人間というのは沢山いるし、同じくFacebookやLINEでしか連絡が取れない人間もいる。

「今の時代は離れててもネットで繋がってられるから」とはよく言うが、その糸は容易く切れてしまうという事を私は知っている。

来週、私は生まれ育った大阪を離れて東京へ引っ越す。 おそらく大阪に帰ってくるのは年に1,2回だと思う。

今まで大阪で構築してきた「オフライン上での人間関係」は全て「オンライン上での人間関係」になる。

人生に出会いの数だけ別れがあるのは必然なのだろうが、やはりこれにはいつまで経っても慣れられる気がしない。

慣れるしかないと頭では理解していても心では理解できそうもない。

どうか私が大阪で築いてきた関係のせいで心が別れに慣れてしまわないように、東京での日々を過ごしていきたい。